良い悪いもない、ということについて。

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「良いとか悪いとかじゃなくて」

という言葉は便利だ。

たぶん日常でよく言ってる人多いと思うし、

記憶にある限りでは、わたしは昨日も一回は使った。

 

言葉として便利というのは、

 

中庸ということ意識して

相手(出来事など)を断罪してるわけではないという意思表示という

前置きのようなもので、その上で、

自分がこう考えてますということをより相手に伝えやすいという点で便利だと

わたしは思っている。

 

でもね

良い悪いはこの世には存在するし

 

それを決めてるのは、紛れもなく自分であるということも

忘れてはならないんだと思う。

 

そういう意味では嘘ですよ、良い悪いもないって言葉は。

 

良い悪いもない=良い悪いもある

ってこと。

 

良い、悪いという概念があるからこそ、

良い、悪いがある、良い、悪いがない、

という世界にわたし達は生きてる訳で。。。

 

自分で良い悪いを決めてる、というのは、

生きてきた上でインプットしてきた倫理観や

周り環境の影響よって出来上がった価値観や

好みのようなすぐに移り変わってく些細な感情で

勝手に、瞬間瞬間で、決めてるんだってこと。

 

良い悪いを決めてるというのがわかりづらければ、

 

YESなのかNOなのか?

良いと思うのか嫌だと思うのか?

というふうに言い換えると見えやすくなるかも。

 

どうして決めてるんだといえば

生きるため、なんだと思う。

 

 

いきなりスピリチュアル方面に舵を切るけど

確かにエネルギー(宇宙)では良いも悪いもない。

そこで、はい!終了〜!

良いも悪いもその概念自体がないので、もともと存在すらしない。

という解釈さえいらないくらい、無。

 

マジに考えてみても、正直、それって一体どういうことだ??

って全くわからない。

 

わたしは良い悪いの世界にいるから。

 

そうかぁ、良い悪いも宇宙は無いからなんでもオッケーなんだね!

とは思えない。言ったことあるかもだけど(笑)ごめんね。

 

ぼやけてたなぁ、って思う、自分が。

 

なんでもオッケーなのは宇宙が、で

私達が生きてる世界のことじゃないのに。

 

それとこれとは別!なのだ。

 

そのことについてあんまりわたしは考えて来なかったし、

たぶん気づいてない人もいるんじゃないかと思う。

 

別だから面白いし、興味深いのだ。

 

なんかいい感じに、わかりきったふうに

良い悪いもないからなんて言って

目の前で起きてることや

自分が心の奥、頭で、感じ、考えてることに蓋をしてるだけって

気づいてこなかった。

 

バカだなあ、わたし。

 

良いも悪いもあるこの世で

いかに遊べるか?

宇宙の仕組みの端っこでも理解できて

そのエネルギーを受け取れるか?

 

それを思っただけで、ドキドキする。

 

 

思い出してしまった過去のわたし。

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先日、京都から茅ヶ崎に戻り、翌日に実家へひとりで一泊帰省したときの事。

父の様子を見に行くのが目的だったのだけど、

所用で同級生に会うことにもなり短い時間だったけどランチとお茶をした。

 

もうここ何年も同級生たちとの会合みたいなのは出てないし、

いつもは帰省するときも黙って帰ってたんだけど、

今回は中学の時の担任の先生が退職されたのでお花をみんなで送らないか?

って話がメールで来て、そのお花代を渡すのに軽く会おうかということに。

 

会ったのは唯一、同級生の中で未だに連絡がたまに来る子で、

成人してからはいちばん親しくしてたはずだけど、

こんなにも、(たぶん自分も)その子も変わってしまったのだなあと会うたびに思う。

今回はランチで行ったお店の席に座って話し始めるなり、

お花を贈ることになってからの、

他の同級生との派閥争いみたいな揉め事があったという話になり、

目の前に運ばれて来た料理を全然味わっている様子もなく、

ずっと愚痴の又聞きみたいな話題で、

わたしの中でどんどんその子の声が遠ざかりミュートしていくのを感じた。

いちおう相槌打ったりはしてたけど、途中で思わず、もうどうでもいいじゃない?

って言ってしまった。まったく楽しくないし。

ラインの文面まで見せようとするので、興味ないしいいよ、と断った。

 

そしてその次にカフェで合流した同級生は小中とわりと仲良くしてた子で、

自分の娘と息子とオットに対する発言が辛辣で、

ここでもサーーーっと距離が出来たのを感じた。

 

3人で会ってるけど、

もうわたしは完全にひとりのセカイに居た。

話しはしてたし相槌も打ってたけど、心は別の空間へ。

 

その同級生2人は、たぶん一般的なの。

どこも間違ってないし、真っ当に生きてる。

おかしいのは自分なんだ、って気がした。

 

だけど、そっちには行きたくないし、行けないなあと。

 

帰り側、カフェの庭からの景色が良くて、

車に乗る寸前に写真を撮った。

 

家に戻ってから

そこになにかが写ってるのに初めて気づいた。

 

妖精だ!

 

諸々省くけどこのタイミングで、写ったかー。

 

そして急激に思い出した。

 

わたしは小学校に上がる前くらいまで、

ひとりきりで遊ぶことが多くて、空想のセカイが大好きだった。

(その時は空想とは思ってなかったけど。)

大人のウソが見えて嫌だったし、人間が怖かった。

 

そんなわたしが小学生の頃、処世術を身につけないと生きづらいと気づき、

努力したのだった。人とのコミュニケーションを。

 

最近、その無敵だったしなにも怖くなくて自由だった5歳くらいまでの感覚が

いろいろなことがあって蘇って来ていて、

 

そんな矢先で同級生と再会し、処世術を身につけた後で親しくなった友達が、

なんでここまで気が合わないって思ってしまうのかが、

 

この写真を見てわかってしまった気がした。

 

わたし、もともと人間が嫌いだったんだなあと。

 

でもそれにきづいても、もう大丈夫。

 

大人だし、身につけた処世術はそんなに簡単になくならないと思うし。

 

だけど、もうほんとに、人にどう見られてるか?とかは、

どうでもいいなあ〜と思うのだ。

 

同級生がみんなわたしのことを忘れてしまったとしても、

わたしには大切な人がいるし、仲間もいる。

みんな自分がひとりだということを知ってる人たち。

 

そんなことにあらためて気づかせてくれた

ひょんなところで、よお!って出てきてくれた妖精、サンキュー!

 

また、一緒に遊びましょう!

 

長いこと待たせたね!

 

繊細であることについて。

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職業柄、繊細な人に出会うことが多い。

繊細な、というのは、他人に対して敏感で息苦しさを感じてたり、

今ではなく過去に親や先生や周りの大人の態度や言うことが、

実際思ってることと違うということが感覚的にわかってしまい、

人のことが信じられなくなったり、、、。

いろんな方向性があるので全ての人とは言えないけど、

そういう人ほど、「頼られたり」「依存されたり」する。

親や、職場の人や、友達、ママ友など。。。場合によっては、

(見えないネガティブな存在)から。

 

頼られたりというと、頼もしい人って見えるかもだけど、

セッションに来られる人に対して言えば、

率先してその役を買って出ている訳ではなく、

なんとなくそうなってることが多い。

 

私がやったほうが早いし、、、

断るのもせっかく言ってきてくれてるから悪いし、、、

など理由はそれぞれだけど。

 

でも本当に好きでやってる訳ではないので

どんどん疲れてくる。相手に自分のエネルギーを奪われるので。

 

わたしがそういう人に思うことは

 

ものすごくタフですね!

 

ということ。

 

エネルギーが強いという言い方をすることが多いけど。

 

でも繊細な人ほど、それを伝えると、

ええっ!とびっくりするし、なかなか認めてくれない(笑)

 

何回か伝えるチャンスがあれば、

だんだんとわかってくれることもあるんだけど、時間がかかる。

 

きっと「自分は弱い」というふうに思い込まされた何かが

過去にあるんでしょう。

 

それはむしろ強いからなんですよ!って言いたい。

この世は出る杭は打たれる、打たないと!という集団意識が働いてるので、

エネルギーが強く、かつ繊細な人ほど、凹まされることが多いと思う。

 

繊細な人は、自分が悪かったから、とそれを無意識に引き受けてしまうのだと思う。

 

例えば子供の頃にいじめられてた人でいうならば、

相手に憎悪を抱いても、とことん根底に(自分が悪いからって)のがあるのだと思う。

 

わたしも小学生の頃にクラスの男子や近所のガキ大将的な女の子w

にいじめられてたけど、

大人になってわかったのは、

あの子達よりわたしのほうが繊細で強かったからだと。

絶対、その子たちの前では泣かないようにしてたし。

 

大人になって地元で就職して、

わたしが働いていた職場に偶然やってきた

その男子の両親と接することがあったとき、

ああ、この両親に育てられたら

ああして学校でしか発散できない子だったんだろうな

とわかった。繊細さは同じだったろうけど、タフではなかったんだ。

 

わたしだって無意識にクラスの女の子をいじめてた、

と後で気づいたことがあったけど、その子のほうがわたしより何倍もタフで繊細だった。

 

何が言いたいか、というと、

 

繊細さは弱さではなく、強さということ!

 

それを、きちんと理解しないと、

こうやってずっと

奪ったり、奪われたりを繰り返してしまうのだと思う。

 

誰も被害者でないのだ=誰も加害者でないのだ

ということ。

 

まず自分の内の被害者意識を無くさないと

加害者も生まれ続けるということ。

 

自分の強さを認めたうえで

それを周りに積極的に還元したいか、

自分のために生まれて初めて使ってみるか?

はご自由にどうぞ!

 

他人の人生は送れない。

自分は自分の人生しか送れない。

 

そう思うと、

 

自分が送れない人生を送っている「自分以外の人たち」

全てにリスペクトだと思う。

 

 

 

支えてるつもりが支えられてるということ。

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仕事へ向かうために乗ったバスに、

途中からカートを押した高齢の女性が乗り込んできた。

乗る時も、よいしょ!とちょっと大変そうだったので、

駅に着いて降りる時も、何か手伝うことがあれば、

となんとなく気にかけていた。

無事にバスから降りられて、

ちょうど、わたしのすぐ後ろからエスカレーターに乗ったので、

またちょっとだけ、降りるとき大丈夫かな?って思ってたら、

 

エスカレーターが上がりきる寸前に

 

ズボンの裾が!

 

と後ろから声がした。

 

みると、わたしのジーンズの片足の裾が靴下にインしていた。。。

 

急いで裾を直して、振り向いて、

ありがとうございます!と言って別れた。

 

心の中ではさらに

 

若輩者でした!すみません!

と叫んでたわたし。

 

人の身だしなみにまで目が行く

衰えの無い精神、、、

参りました。。。

 

(わたしがだらしないだけかも)

 

 

こんなふうに

 

こちらが支えてるつもりが

実は支えられてることってたくさんあるのかもしれないな。

 

ちなみに仕事を終え、買い物をして帰るときに乗ったバスに、

その女性が!

 

心の中でさっきはどうも、、、と会釈したけど、

さすがにあちらは覚えてなさそうで、

今度はちょうど乗り合わせていた知り合いのおばあちゃんと

話していて、

わたしも85歳になったのよう。

という声が聞こえてきた。

 

うちの父と同じ歳!

 

女性はやっぱり元気ですね、、、、。

 

 

今日は新規のお客様のセッションで、

ずいぶん前にグループ展で父の仏像(ゆる仏像)を展示していたんだけど、

なんとそれをみてくださって、それからわたしのセッションを知ってくださった、

とのこと。

 

いろんなご縁できてくださる方がいるけど、

 

このタイミングで、ゆる仏さんのご縁で来てくださったことが、

ありがたいなあと思った。

 

病気で臥せっている父にも

日々想いとヒーリングを送ってるけれど、

 

ずっと支えられているのだなと気づいた。

 

今日は

そんな1日。

 

ここが、楽園になる。

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今日は先週末も行った里山公園へ。

昨夜、鶏肉の賞味期限日だったので、

揚げておいた唐揚げのことを思い出し、

じゃあちょっとおべんと持って行こうか?

って急いで卵焼きときゅうりの浅漬けも作った。

おにぎりは米が切れてたのもあり、コンビニで調達。

 

着くなり、おべんと広げて景色を見ながら食べて、

また景色を見ながらぼんやりし、

ベンチで寝っ転がった。

 

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忘れていたわけではない。

今日が11日だということを。

昨夜はなかなか寝付けなかった。

 

なんだかこんな暖かい春の日差しの中にいると、

忘れていたような気分になってしまう。

 

でもやっぱり思い出す。

あの日も今日みたいに

いや、今日以上のポカポカ陽気だったなって。

忘れていたような気分と

強烈な記憶で体感として残ってるもの。

 

揺れがくる30分前に近所を散歩しながら、

ああ、なんてしあわせなんだろう!って感じてたわたしも覚えてる。

その後にあんなことがあるなんて。

帰宅して遅い昼ごはんのラーメンを食べ終わった頃だった。

 

そんなことは、きっとそれまでの人生だって

いつだってそうで、

道を曲がったら、別の選択をしたら、

その先に何が待ってるかなんてわからないんだ、ってこと。

 

だからってビクビク震えてるのも嫌だ。

 

自分にできるのは

いつでも、ここが楽園であるように過ごすことしかできない。

 

そんなことを感じながら

里山の景色を眺めていると、

ここはほんとに素晴らしい場所だなって

こんな景色がある街に住めて最高だって

心の中の楽園がまだ立ち上がってくるんだ。

 

先週にここに来た時は今日よりもっとポカポカ陽気だったけど、

個人的に

気の抜けない状況もあり、必死に光を見ようとしてたな。

 

そしてそこで見た光にやっぱり救われて

感謝が溢れた。

 

いつだってどこにだってある、
わたしの楽園のことを

 

見ようとしなくたって

そこにある光のことを

 

たとえ忘れている気分になっても

 

何度も何度も、こうして思い出すんだろうね。

 

わたしがこうして、7年前のこと、先週のことを思い出してる隣で

スマホ見ていたオットが、えー!って言うので、何か聞くと、

 

35年前がどんな日だったか出て来たけど、

流行語はオバタリアン、醤油顔、

流行ってた曲は光GENJIだって、、、と

スマホを見せてくれた。

 

全部知ってる(-。-;

というか、あれから35年も経ったの!?

 

と、違う意味で2人でしんみりした。。。

 

楽園ってコトバが突如、

パラダイス銀河に取って代わる(笑)

 

これもまた、わたしの楽園。

 

ようこそここへ遊ぼうよパラダイス!

 

 

 

嫌なことをやめてみる人生。

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年明けてからずっと引きこもっていたけど、

今日は茅ヶ崎駅近くで開いている國府方桃子さんの写真展「あなたには」へ。

 

昨年の夏に突然「写真を撮らせて欲しい」と連絡をくれて、

翌日、ちょうど会う予定になっていたチエさんと江ノ島の海岸で撮ってもらった。

当日は天気が荒れ模様。さっきまで晴れていたと思ったら、

急に暗雲立ち込め、強い風が吹いてきて、

浜辺でチエさんと2人で待っていたけど、

砂煙に堪えきれず、江ノ島水族館の建物入り口に避難した。

5分くらいしたら、ももちゃんがやってきて、

そうしたら急に日が差して来たのだった。

あれにはびっくりした。

(もっとびっくりしたのは、彼女のスリランカ旅の際の危機一髪な体験談だけど)

ともあれ、無事に撮影終わり、ありがとう!と颯爽と他の方の撮影に向かったももちゃん。

今日は自分たち以外の「あなた」の写真をたくさんみることができて、

みなさん良い顔で、一緒に写る風景もその人たちの雰囲気が感じられて心が和んだ。

カップルや男性の写真も多く、いろんな年齢層の方が写ってたけど、

ももちゃん曰く、気づいたらサラリーマンが1人も居なかったと。

わたしもオット以外はサラリーマンの人、周りに居ないなあ。

(逆にオットがサラリーマンなのがすごいよねw)

類は友を呼ぶのだね。

写真展の写真の中のみなさんを見ているとき、

会ったことのない人もどこかですれ違っているような、

そんな身近さがあった。

 

(嫌なことをやめてみる人生)

 

年末年始は家でだらっと過ごした。

暮れはちょっとだけ大掃除っぽいことをし、あとは近隣に出かけただけ。

嫁じゃないので嫁仕事もないし、客人が来る家でもないので、楽。

 

あまりにもだらっとしてたので、

こんなのでいいのだろうか?と自分の人生について考えてしまった。

 

「好きなことをするにはどうしたらいいのか?」

と聞かれることがあったけど、

 

たぶんわたしは好きなことをしてる、というより

「嫌なことをしない」ことを選んで来たんだと思う。

 

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我慢が足りない‼︎って叱られたり、

自分を責めたり、

まともじゃないって言われたこともあったけど、

 

ほんとに無理なんです、、、

嫌なことやるのが。

 

 病気になるレベルなので、それに気づいてから、

もうダメ人間でも、社会的に脱落者でも、

仕方がないなあって思うようになりました。

 

そしたら自分なんてふつうだなあって思わせてくれるような

独創的な人たちがいるということが見えてきて、、、

ほんとにびっくりするような人っているんだなあと。

 

それでも どっこい  みんな 生きている。

 

わたしはどうにも団体が苦手で、

だからか、会社に属するってこともダメでした。

 

これ言うとびっくりする人もいるけど、

基本的に人見知りです笑。

友達も少ないと思う。(知り合いはたくさんいますが)

 

と、この記事は実は途中まで書いて保存してたのですが、

 

昨日くらいに

 

 

なんでお母さんだけが家事したり

女性がメインで子育てしたり

 

誰がいつ決めたんだ?

 

って急に

 

ほんとにナンセンスに思ったのでした。。。

 

子供もいない自分がそう思うくらいなので、

子育てして仕事までしてる女性はさぞかし

想像できないほど大変だと思う。

 

その我慢が解放されて

社会に本来の女性のチカラが還元されたら

もっと男性もしあわせになるのになあと。

 

本来チカラって

そりゃ、ラブですよ、、、。本質的なやさしさ。

 

役割としての、やさしさじゃなく。

 

 

最近はそんな感じで?

 

もっとラブでいこうと

 

いろいろなことを決めたり手放したりしています。

 

 

 

 

 

あけましておめでとうございます。

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SNS見てると各地の各ご家庭のお雑煮が見られて

なんだか楽しい。

うちのお雑煮はたぶん関東ベーシック。

鶏肉が入ったもの。ナルトを今年は買い忘れてしまった。

あとはきんぴらごぼうを作る。

おせちは作ったことないし、

お酒はオットが飲まない人なので

至って質素というか簡易的なメニュー。

 

今年も年末年始は茅ヶ崎で過ごし実家へは帰らず。

実家だと食べ物だらけで、あると薦められるがままに食べて、

あっという間に食事の時間になるし、作ってもらうのはありがたいながらも

正直食べ疲れするけど、

自分の家だと気ままに食べたい時間に自分に合う量で食べられるので、楽ちん。

嫁仕事もないし、ささやかにサーっといつも行事は過ぎる。

明日はカレーにしようかな。

 

今年は書くこと、をもう少し濃密にやっていきたい。

 

それには日頃、自分がどう感じているのか?ってことを

表面ではなく、もっと深部で各方向から捉えないとなと感じる。

 

1月はありがたいことに東京と千葉への出張が二件。

あとは茅ヶ崎でのセッションで、

京都は今月はおやすみ。

 

京都でのお正月も魅力的だったけど、住まいでの時間も大切だし、

猫たちもいるしね。

 

昨夜は紅白を存分に楽しみ、年が明けてわりとすぐに除夜の鐘を聞きながら寝ました。

 

 

まとまらない記事になったけど

今年もよろしくお願いします!

 

ことよろ〜♫